皇太子殿下と雅子さま ご成婚の裏にあったもの
平成の世もあと一年余りになった。
来年4月30日をもって天皇皇后両陛下は、皇太子ご夫妻に天皇の地位を譲位され、上皇陛下、上皇后陛下となられる。
新しい時代が始まるわけだが、今の若い方々は、次期天皇皇后陛下となられる皇太子ご夫妻のことを、どれくらいご存知だろうか。
昭和の時代は、皇室の話題はごく普通にそして頻繁にテレビなどで取り上げられ、今の天皇陛下が皇太子殿下時代は、家族全員でのお写真も動画も頻繁に撮られ、お茶の間に流れていた。皇太子殿下、秋篠宮殿下、今は降嫁された黒田清子さんの学校行事や卒業式での様子、夏休みをお過ごしになるご一家の自然なご様子なども、しっかり写真や映像として納められ、実にオープンに披露されていた。そのため国民皆、当時の皇太子ご一家を「ふつうの家庭と変わらないご家族」という親しみを感じていた。当時は皇室に妃殿下も多くおられたので、ロイヤルファッションチェックの番組や週刊誌報道もとても多かった。
そんな華やかでオープンな皇室報道は、今はすっかりなくなってしまった。原因はおそらく、長い療養生活を送られる雅子さまを慮ってのことだと思われる。
皇室との縁組を熱望していた小和田家
平成の時代がもうすぐ終わるいま現在でも、ごく一般に言われていること。
『雅子さまは、皇太子殿下の熱烈なプロポーズに折れる形で、外務省でのキャリアを泣く泣くお捨てになった。しかし皇室は、雅子さまの高い能力や国際感覚を十分に発揮するにはあまりに旧態依然としたところで、外国育ちのキャリアウーマンであった雅子さまは適応障害を起こされた』
この流布は、ほぼ、真っ赤な嘘である。
雅子さまは、泣く泣く外務省でのスーパーキャリアを捨てて、皇室に嫁がれたのではない。外務省と当時外務省次官だった父、小和田恒氏を中心とした人々の猛烈な後押しによって、皇室に嫁いだのである。
1993年当時、皇太子婚約についての報道は、国内では報道協定が結ばれていた。しかし、その協定外にあったアメリカ合衆国の新聞『ワシントンポスト』が、同年1月6日に、日本の皇太子御婚約をスクープした。
このスクープを流したのは、ワシントンポストの日本人記者・東郷茂彦氏である。東郷茂彦の祖父・東郷茂徳は、太平洋戦争開戦時及び終戦時外務大臣、父・東郷文彦は戦後、外務省事務次官と駐米大使を務めている。茂彦の双子の弟・東郷和彦も、元駐オランダ大使・外務省欧亜局長などを務める外交官だった。
雅子さまと皇太子殿下と婚約の報道は、当時の外務省を中心とした関係者が熱烈にその縁組を望み、全力でサポートし、見切り発車的にスクープを飛ばしたものなのである。
ワシントンポストのスクープを受けて、同日夕、日本の報道機関もなし崩し的に、皇太子妃内定の速報を一斉に流した。
1月6日に皇太子妃内定の速報が出ても、当事者であるはずの宮内庁は数日間、完全に沈黙していた。宮内庁はおそらく、婚約スクープに関して完全に蚊帳の外に置かれていて、この騒動をどう収拾させるか苦悶していたと思われる…。
外務省とマスコミが作り上げたお妃候補 小和田雅子さん
時代がまだ昭和だった頃、1960年生まれの浩宮徳仁親王殿下の結婚は、いつも注目の話題だった。そんな中、1980年後半頃から、外交官の娘、ハーバード大学卒の才媛、小和田雅子さんの名前がまるで何かのキャンペーンのように、たびたびマスコミで喧伝されていた。東京大学在学中に外交官試験に合格したというニュースは、NHKや新聞でもとても大きく取り上げられた。
当時は海外留学、帰国子女、バイリンガル、キャリアウーマンなどとという言葉が大ブームで、雅子さんはそのすべてを持ち合わせている女性として、マスコミに盛んに取り立てられていたのである。
皇太子殿下と雅子さまは、1986年10月のスペイン・エレナ王女のレセプションで、初めて運命的な出会いをしたと言われている。しかし本当はそのずっと以前より、お二人はかなり親密な知り合いだったのではないかと、まことしやかに言われている。
1984年、浩宮徳仁殿下と小和田雅子さんは、欧州・ドイツ国境に近いフランス・アルザス領コルマールという都市を、お忍びで旅行に行ったという話がある。お二人がその時、意気投合したのか、それともそのまま交際は自然消滅したのかは分からない。
しかし、運命の出会いとされる1986年10月のスペイン・エレナ王女のレセプション開催直前には、徳仁親王殿下本人の記事が掲載された写真週刊誌「FOCUS」10/17号に、まるで狙い定めたように、『父娘2代の外交官誕生!』と、雅子さんのグラビアがデカデカとねじ込んであったことを見ると、小和田家とその周辺の人々が引き続き必死になって、雅子さんを殿下に売り込んでいたことが分かる。
エレナ王女のレセプション当日には、出席者名簿に手書きで、小和田雅子さんの名前が急遽書き加えられた。
小和田家、外務省、マスコミ、+αの人たちにとって、宮内庁が選ぶ良家出身のお妃候補には決して加えられない小和田雅子さんという女性が、とても重要な人物だったのは間違いないのだ。
昭和天皇は反対対されていた
当時まだご存命だった昭和天皇は、徳仁親王殿下と小和田雅子さんとの縁組は反対されていたと伝えられている。また当時の宮内庁が、小和田家の家系や雅子さんの異性関係を調査し、雅子さんとの縁組は断念するよう浩宮徳仁親王を説得したと言われている。
しかし、昭和天皇は1989年1月にご崩御。時代は昭和から平成に変わり、皇太子となった徳仁親王殿下の周辺がようやく落ち着いて来た頃に、小和田家とその周りの人々は、まだ独身だった皇太子殿下に、また猛烈なアタックを仕掛けてくるのである。
時にはご両親である天皇皇后両陛下や、宮内庁職員の目を欺いてまで、雅子さんとの密会の機会を作ったりしていたようである。
一度は破談になった雅子さん本人は、一時他の男性との結婚を考えていたとも言われているが、父親の小和田恒氏が、娘を皇太子妃にするという野望を、決してあきらめることはなかった。そして雅子さんも、結局は父親がひいたレール以外は歩いたことのないひとである。結婚も、親の言う通りの道を進んだのであった。
雅子さまの背景にあるもの
1月6日のスクープから約2週間後の1月19日、皇室会議が開かれ、雅子さまは皇太子殿下の婚約者として内定した。この時、全会一致ではなく、昭和天皇の弟、三笠宮崇仁親王殿下は婚約反対の意思を出されたとされている。
そして6月9日、お二人は晴れて夫婦となられた。皇族の結婚式が行われる賢所での、十二単に身を包んだ雅子さまは、非常に険しい表情をされていたが、白のローブデコルテに着替えられると、明らかに幸せいっぱい、喜色満面の笑みを浮かべられていた。皇太子殿下の方が、これからの苦難の日々を何となく予感されてのことなのか、どこか神妙なお顔をされる場面が多かった。
1993年の世紀のロイヤルウエディングがあった当時は宮沢内閣、河野洋平氏が内閣官房長官、そして、外務省次官が皇太子妃の父となった小和田恒氏だった。
ロイヤルウエディングより2か月後の同年8月、その後、長期にわたって日本を苦悩させ、日韓関係を狂わせるあの「河野談話」が発表されるのである。
当時、新聞社は既に斜陽産業だったが、朝日新聞などの左派メディアの勢いはまだまだすさまじかった。マスコミの号令で時の政権を操作することは十分可能な時代であった。
いまから25年前、様々な人々の思惑を背負って皇室に嫁がれた雅子さま。来年の新天皇御即位を控え、今年の6月9日には皇太子殿下と銀婚式を迎えられる。
日本人の9割が知らないこと
人それぞれ感じ方が違うと思います。
日本の三種の神器
日本の三種の神器とは・・・
「八咫の鏡」「八尺瓊勾玉」「草薙の剣」
のことを指します。
日本神話において、天皇の祖先とされている瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天照大御神から日本を治めるために授けられたものがこの3つの神器。
今回はこちらについて見ていきましょう。
*八咫の鏡(やたのかがみ)
現在、伊勢神宮内宮にあると言われています
これは知恵を象徴していると言われています。
この鏡によって、世の中が明るくなったと言われています。
*八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
現在、皇居御所にあると言われています。
これは慈悲深さを象徴していると言われています。
当時の詳しいことはわかりませんが、玉祖命(たまのおやのみこと)という方が作ったそうです。
*草薙の剣(くさなぎのつるぎ)
参照元:日本神話の世界
)
現在、熱田神宮にあると言われています。
これは勇気・武力を象徴していると言われています。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が山火事で燃えている草をなぎ払って難を逃れたことから「草薙剣」と呼ばれるようになりました。
当時の人からすれば、その姿が勇気を感じた瞬間かもしれませんね。
この3つとも御神体として祀られているので、直接見ることは恐れ多い存在ということですかね。
もしかしたら、現在ある場所に行ったら何か感じるものがあるかもしれませんね。
【アジア版の国連】大東亜共栄圏
いよいよ平成も残り2ヶ月となりましたね。
新天皇になり、日本が大きく変わるかもしれません。
今から約79年前、日本は大きく変えたことがありました。
それは「大東亜共栄圏」です。
1940年から1945年まで唱えられた日本の対アジア政策構想であり、
現在の教科書では、占領し酷いことをしたと書かれていることが多いです。
1945年の戦後からGHQの介入により、教科書もだいぶ変わったようです。
実は、占領した国というのは元々他の国の植民地で、そこの国から解放するために戦争をして勝ち取り、インフラを整えました。
※これをのちの「大東亜戦争」と呼びます。
その国々を植民地から解放後、各国に独立を促しました。
*占拠の流れ
日本は琉球(現在の沖縄)・台湾を占拠しました。
そのあと朝鮮半島を吸収、満州国(現在の中国東北)に進出後、満州事変を起こす。
さらに、日中戦争が始まります。中国も加盟する流れになりました。
*インフラの整備をした主な国
韓国と台湾をご紹介します。
まずは、韓国ですが今でも韓国人にとって屈辱と感じています。
「昔からの歴史を潰された」、「ハングルと盗られた」など言っているのも事実ですが、
実際、日本は「乳出しチョゴリ禁止」、「人糞を食べる習慣を無くし」、「奴隷制度の解放」、「ハングルの普及」などをしたのも事実です。
日本がインフラを整える前は原始時代の生活と呼ばれていた状況だったとか。
台湾に関しては、とても感謝されているようです。
一部、批判の声もありますが・・・
*大東亜共栄圏の加盟国
日本・中華民国・満州国(現在の中国東北)・インドシナ・タイ王国・マラヤ・ボルネオ・東インド・ビルマ・オーストラリア・ニュージーランド・インド帝国(現在のインド)など
しかし第2次世界大戦の敗北により解体されました。
その後、加盟国は独立運動をしたところが多く、独立した国が多いです。
日本の行動により良きも悪きも同盟国は独立になったのです。
日本人の底に眠る「秘めたる力」
我々、日本人は唯一「気を使える人」だと言われています。
*日本人は細かいことのできる技術職人の特徴として
*旨みを感じ取れるのは・・・
*世界地図を見ると、日本は一番右側。
天皇陛下 大嘗祭とはなにか
2018年4月25日、赤坂御用地にて、恒例の春の園遊会が開かれた。
天皇皇后両陛下が各界で活躍された人たちをお招きになって、お言葉をかけねぎらわれる、春秋2回行われる恒例行事である。
天皇皇后両陛下が主宰されるのも、おそらくあと2回、1年後の春の園遊会が最後と思われる。
当然、それ以降は皇太子ご夫妻に引き継がれるわけだが、皇太子妃雅子さまは、多くの人とお話を交わす園遊会を大の苦手とされている。
先の園遊会でも、赤坂御用地の築山にはご登場になったものの、そこを天皇皇后両陛下とともに下りてくると、集まった人々と言葉を交わすこともなく、会場をあとにされた。
晴れ着に身を包んで長時間待っていた招待客たちは、肩透かしにあったであろう。
しかし、皇太子殿下とともに新しい時代を担われる雅子さまには、園遊会だけではない、とんでもなく大切な行事が来年以降、目白押しに控えている。
特に大切なのは、大嘗祭(だいじょうさい)である。
これを無事遂行しなければ、真の天皇とはなれないといわれる行事である。
平成31年の御譲位スケジュールとは
まだ平成31年の一連のお行事についての細かいスケジュールは発表になっていないが、平成31年4月30日に天皇陛下が譲位され、翌日5月1日に皇太子殿下が即位され、元号も改元される予定である。
譲位は江戸時代後期、第119代光格天皇以来約200年ぶりということであり、譲位の儀式も文献などを参考にしながら、現代に合った儀式が遂行されるものと思われる。
来年4月30日の儀式は、天皇陛下の位の証、つまり神器と御璽、国璽をお返しになる儀式になると思われる。
昭和天皇は1989年1月7日午前6時半頃に崩御された。そして時間を置かず同日午前10時には、当時皇太子殿下だった今上天皇が剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけいのぎ)に臨まれ、剣、勾玉、御璽、国璽を継承された。
当時筆者は、昭和天皇が亡くなられたばかりのこんなに慌ただしい状況の中で、引き継ぎの式を挙行することに驚いた。天皇の地位に空白があってはならないのである。
今上陛下が昭和天皇ご崩御の翌年平成2年に臨まれた儀式は、以下のようなものである。
平成2年11月に入ると、即位の礼を前に3日間にわたって式の御習礼(予行練習)をされ、即位の礼に臨まれた後は、祝賀の儀、饗宴の儀と、各国来賓との会見等が1週間続いた。
それが終わったのち、いよいよ大嘗祭のための1週間をお迎えになった。
大嘗祭もまず御習礼があり、そのあと心身を清める御禊(みそぎ)がある。大嘗祭は11月23日に合わせて行われる。11月23日は現在、勤労感謝の日と呼ばれているが、この呼び名は、戦後GHQ占領下で米国が考えた言葉で、本来であれば新嘗祭(にいなめさい)と呼ぶのが正しい。新嘗祭は、天皇陛下がその年に収穫された五穀を神様にお捧げになる日で、天皇陛下はこの日まで新米を口にされない。
即位されたばかりの天皇陛下が初めて執り行う新嘗祭を、大嘗祭と呼ぶ。つまり五穀豊穣を祈ってこそ、天皇は初めて天皇となるのである。
今上陛下は、この一番重要な大嘗祭を終えられたのちは時を置かずに地方行幸にお出かけになり、即位の礼から始まりほぼ1ヶ月間、まったくお休みなしという状況だった。
皇太子ご夫妻は来年、これに近いスケジュールに臨まれることになる。しかし長期療養中の雅子さまには負担が重すぎると考えられ、ほぼ、皇太子さまお一人でなさるのではないかと、筆者は見ている。
神話の再現 秘儀「大嘗祭」
新天皇が初めて行う新嘗祭を大嘗祭というが、は、一世一代の秘儀のため、一般にはその内容の詳細は知られていない。ただ、この大嘗祭のためだけに、大嘗宮である悠紀殿(ゆきでん)、主基殿(すきでん)が建てられる。今上陛下の場合は、皇居東御苑に造られた。
大嘗祭では、この日のために西と東からそれぞれ選ばれた東日本(悠紀田)と西日本(主基田)からの収穫米が奉納される。その年の新米にこそ、日本列島の聖なるパワーが満ちていると考えられているからである。
新天皇は先代から「天皇霊」を引き継ぐだけでなく、その力を活性化させる必要があるので、引き継がれる三種の神器以外は、大嘗宮をはじめすべて新しいものが準備される。
さて、大嘗祭のためだけに建てられた悠紀殿、主基殿で、いったい何が行われるかと言うと、簡単に言えば神話の世界を再現することである。つまり、天孫降臨した邇邇芸命(ニニギノミコト)そのものに、新天皇がおなりになる儀式が行われる。
日本書紀には、天孫である邇邇芸命は、「真床追衾(まとこおうふすま)」という膜状のものに覆われて降臨したとされる。大嘗宮には廻立殿(かいりゅうでん)という休息所があり、新天皇はここで沐浴されてから、悠紀殿、主基殿でそれぞれ2時間ずつお過ごしになる。悠紀殿、主基殿の正殿にあがれるのは新天皇ただおひとりである。
正殿内部には、分厚く敷物が重ねられた聖なる寝座があるとされる。その周辺に、神様の衣である神御衣(かんみそ)=和妙(にぎたえ)と呼ばれる絹と、荒妙(あらたえ)と呼ばれる麻の反物が供されているという。あらたえは古来より、大嘗祭の折に、阿波国(徳島)の忌部氏のみに製作を任され調進される大麻の織物である。またさらに寝座周りには、沓、扇、櫛なども置かれているという。
こういった神具とともに2時間ものお籠り中、新天皇が何をなさるのかは全くの謎とされる。しかし悠紀殿、主基殿でそれぞれ過ごされたのちの新天皇には、儀式前とは明らかに違った威厳、神威が備わると言われている。
大嘗祭こそ神話の国日本の真髄である。それがもう間もなく行われ。日本国民として、心してその日を待ちたいと思う。
アメリカ合衆国と宇宙人
エリア51は、観光地ラスベガスから北北西約200km、ネバダ州リンカーン郡にある。
特徴的な白いアルカリ性塩湖、グルーム乾燥湖のそばにある。その存在はすでに常識で、Googleでも確認できる。最近、大きな格納庫が建設されたという情報もある。
アメリカ中央情報局(CIA)がエリア51の存在を公式に認めることになったきっかけは、2005年の「米国家安全保障アーカイブ」の公文書請求である。
2013年、「フリーダム・オブ・インフォメーション(情報に対する自由)」の申請が受理され、米国政府はエリア51の存在を公式に認めた。しかし同時に、エリア51は、宇宙人技術とは何も関係ないという声明も出された。
エリア51 正式名「ネバダ州 グレーム・レイク空軍基地」
エリア51は正式に認められたが、実はエリア51の役目はもう終わった、主要な施設はすでに他に移された等、様々な噂が存在している。それでも、今もエリア51の立ち入り禁止地区は拡大する一方である。
付近は監視カメラで常に監視され、会話、携帯電話での通話もすべて盗聴されている。禁止エリアに近づいただけで、多くの一般市民が逮捕されている。特には銃で威嚇され、場合によってはいきなり撃たれても、文句は言えない状況になっている。
さらに、地上だけでなく、エリア51の上空は全て、飛行禁止区域になっている。
エリア51で次世代兵器の開発が行われているのは確かである。そして開発された兵器は、いずれ世界中の戦場で使われる。
軍事産業はアメリカ合衆国の根幹である。軍事産業の繁栄のため、エリア51のために、アメリカ合衆国があるといってもよい。
エリア51に匹敵する秘密基地、ユタ州ダグウェイ実験場
アメリカにはエリア51以外にも、秘密軍需施設が多数ある。代表的なのは、ユタ州ダグウェイ実験場である。
ダグウェイ実験場はユタ州ソルトレイクシティ南西約130キロメートル、グレートソルトレイク砂漠内に位置するアメリカ陸軍の施設である。5万7千平方キロメートル、エリア51の33倍の広さがある。
第二次世界大戦中には、ここに日本の町、ドイツの町が再現され、空爆実験が行われた。日本の場合は木造家屋が多いことから、実験により焼夷弾が採択されたと言われている。
ダグウェイ実験場では主に、化学兵器、生物兵器に対する防御が研究されていると言われており、1968年には実験場近辺で、牧場の羊6000頭以上大量死するという事件が起きた。多くの市民がダグウェイで実験された神経ガスの影響だと訴えていたが、事件後30年近く後になって米国陸軍は、ようやくその事実関係を公認した。
また、1949年から1952年にかけては実際の核戦争を想定された実験、訓練も行われ、莫大な量の放射線が空気中に放出された。この情報が正式公開されたのも1993年になってからである。
ダグウェイ実験場も現在、上空、宇宙空間にいたるまで、飛行禁止地域になっている。
生物化学兵器の防御の研究基地なのに一切飛行禁止になっていることから、宇宙人技術との関連を信じてやまない人たちから、ダグウェイ実験場も宇宙人と関連がある施設だと根強く信じられている。
核実験のトリニティ実験とUFO事件のロズウェル事件
エリア51もダグウェイ実験場も、アメリカ軍需産業の拠点であり、機密を厳重に守るのは当然である。
しかし米国人にとって、軍事基地・兵器開発と宇宙人は、なぜか必ず結びつく。
人類初の核実験であるトリニティ実験は、1945年7月16日、ニューメキシコ州ソコロの南東48km(北緯33.675度、西経106.475度)の地点で行われた。
そして、米国でのUFO・宇宙人の事件として絶対にはずせないロズウェル事件は、1947年7月(一説では6月)に起きている。場所はニューメキシコ州ロズウェル(北緯33.429度、西経104.521度)で起きた。
核の時代の幕開けを告げたトリニティ実験場と、もっとも有名なUFO事件が起きたロズウェルは、広いアメリカの国土の中で、すぐ隣同士なのである。これは偶然だろうか。
また場所だけでなく、時期も注目したい。米国人の中で宇宙人の存在が大きくなり始めたのは、米国が核実験に成功してからなのである。(1945年7月16日トリニティ実験のほぼ2年後にロズウェル事件発生)
宇宙人と核の関係
歴史上、世界では日本が唯一の被爆国とされている。
しかし、アメリカ合衆国内では米ソ冷戦時代、主にネバダ州核実験場で、1951年から1958年までの間に、地上での核実験を97回実施している。その後、地下核実験に移行し、およそ1000回近い実験が実施されている。また前述のダグウェイ実験場では、生身の兵士も多数動員され、核戦争を想定した訓練も行われている。
まぎれもなく、アメリカ合衆国こそ、核開発と軍事訓練による放射能汚染にまみれた国である。
アメリカ合衆国では、核実験で被爆した兵士、または一般市民が、被爆被害を訴えるのは難しいとされている。なぜなら核こそアメリカ合衆国を世界一の強国にしたものであり、先の戦争で日本を打ち負かした「正義のいかづち」なのである。核を非難するような空気は、米国ではタブーなのである。
そんなアメリカ人の前に登場したのが、神でも天使でも悪魔でもない、キリスト教以上のもの、キリスト教以外のもの…、宇宙人という存在なのである。
米国人が宇宙人に惹かれる理由
米国の人々は、宇宙人への恐怖と関心が並外れて強い。
日本ではほとんど聞かれない話だが、宇宙人に誘拐されたことがあると本気で信じるひとも相当数存在する。(因みに、入眠時の金縛り状態で日本人が出くわすのは、ほとんど幽霊・妖怪の類である)
宇宙人が超ハイテクのUFOに乗ってやってきて、アメリカの国土に降り立ち、アブダクションして怪しい人体実験をしている。エリア51では、さらに壮大な実験と宇宙人技術を使った技術開発が行われているに違いないと想像する…。
2005年に、H・G・ウェルズ原作の「宇宙戦争」が、スティーヴン・スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演で映画化された。ふつうのアメリカの町々に突然宇宙人が襲来し、人々はまったくなすすべがない、というストーリーである。
強い兵士が武器を持って活躍する戦争映画ではなく、丸腰の市民が宇宙人に次々と襲われる恐怖がこの映画のテーマなのだが、この作品に米国人のメンタリティーがよく表れている。米国人は本当のところ、このようなことは現実には「起こりえない」と思って見ているだろう。
しかし現実は、歴史は、そうではない。この映画を地で行くような無差別爆撃を、アメリカ合衆国は、日本、ベトナム、中東の各国でやりつくしてきた。この映画に出てくる宇宙人こそは、米軍そのものなのである。
宇宙人による陰謀という陰謀
第二次世界大戦終戦間際の広島、長崎への核攻撃、そしてその後も続く核実験とUFO・宇宙人目撃件数は、アメリカ合衆国内では確実に正比例している。
米国人は、核武装による軍事大国に住む強い罪悪感と恐怖、そして、現実問題として核やそのほかの兵器開発の影響で家畜や人体に及ぼされた被害を、宇宙人の仕業であると思い込まされているのではないか。あるいは自ら思いこもうとしているのではないか。
UFOと宇宙人は、核の時代とともにやってきた、もっとも不都合な事実をカモフラージュするための壮大なイリュージョンである、と考えるのは、宇宙人懐疑派の筆者のうがった見方であろうか。
GHQの日本人無力化計画
GHQの日本人無力化計画
アメリカ合衆国は英国との独立戦争を勝ち抜き、1776年7月4日に建国された。その後は1861年~1865年に内戦ともいえる南北戦争が起きるなど、アメリカ合衆国にも、激しい戦争と内乱の時代があった。しかし、国土が他国の空爆などの攻撃にさらされたことはほとんどない。日本、中国大陸、アジア諸国、ヨーロッパ諸国は、先の大戦中、空襲や戦争被害が甚大で、古い建物の多くが破壊され残っていない場合も多いが、アメリカ国内では、通常の家屋でも、100~200年の歴史を持つ建物がたくさん残っている。
そんな攻撃を受けたことがないアメリカ合衆国に、唯一、国を挙げて真正面から戦いを挑んだ国がある。日本である。
日本は国家の名において、アメリカ合衆国を空爆した唯一の国であり、戦時中の硫黄島や沖縄での戦いでも、米兵たちは、日本人の死を恐れぬ強靭な精神力に心底震えあがった。日本兵と闘ったアメリカの退役軍人たちは、「今後二度と、日本を武装させてはならない」と固く誓ったと言われている。
1945年8月、敗戦国となった日本は、アメリカを中心とした連合国側にその後7年間占領されることになった。その総司令部であるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、教育機関とマスコミを使って、日本人の洗脳を行った。
それは主に、先の大戦を始めた日本人がいかに間違っていて、いかに冷酷非道で残虐な民族かという自虐史観を、日本人に徹底的に植えつけることにあった。この謀略は、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムと呼ばれ、頭文字を取ってWGIPと言われる。
終戦直後、食べ物にも事欠く時に、GHQは日本政府に400万台のラジオを国民に支給するよう命令し、さらに連合国側の不利になる情報の放送の禁止する「プレス・コード」も発令した。
これらすべてを命令したのはGHQなのだが、あくまでも日本政府自らが、先の戦争を猛省するという形が常にとられていた。
自虐史観の喧伝を企画したのはCIE(民間情報教育局)で、その本部は、当時ラジオ番組を放送していたNHKに置かれていた。
新聞社、通信社、広告代理店、教育機関すべてに及ぶ
終戦の年の12月から、GHQの指示のもと、各新聞社では「太平洋戦争史」の連載がスタートした、これは先の戦争がいかに日本人の残虐・冷酷な動機をもって行われたものなのかを強調するものだった。
当時、新聞を刷る紙にさえ事欠いていた新聞社は、GHQの敷いた規制に最初はしぶしぶ従い、のちには、自ら主体となり率先してWGIPを長く行うことになる。
また同じ時期、学校で使われていた修身、国史などの教科書もすべて回収され、処分された。
日本の軍隊を想像させるもの、愛国心を想起させるものは、教育現場からも徹底的に排除されていった。
その結果、あなたには愛国心があるか、と聞かれると、とたんに躊躇する日本人を大量に生み出すことに成功したのである。
戦意高揚の旗振り役が自虐史観の宣伝機関へ
いまや自虐史観の牙城・朝日新聞社は、戦前は記事をねつ造してまで戦意高揚に躍起になった新聞社だった。しかし戦後直後、朝日新聞の記事がGHQの逆鱗に触れ、2日間の発行停止を命令されたのをきっかけに、自らGHQにすり寄るようになった。
また、電通の前進は日本電報通信社だが、電報という事業の特殊性を利用して戦後はGHQに深く食い込み、電通、共同通信、時事通信となった。この三社は今でも株式は持ち合いで、その影響力を背景に、最初はラジオ局を、のちにはテレビ局を開設していくことになる。テレビ業界では新規参入は戦後70年以上経つ現在に至るまで一切認められず、テレビ放映での莫大な既得権益は、数社のテレビ局と電通が独占する状態が続いている。
こうやって戦後、目にするもの耳にするもの全ての情報が自虐史観に汚染され、GHQが去ったのちも、それはマスコミと教育機関によってずっと引き継がれた。日本人無力化はGHQが仕組んだものではあるが、WGIPをきっかけとして発生した既得権益にしがみつく者たちが、戦後の日本を大きく狂わせた、と言った方が正確である。
今、安倍総理は放送法改正に着手しようとしている。地上波放送の自由化を進めるものだが、これにテレビ局関係者が一斉に吠えている。自分たちが何十年にもわたって独占してきた利権を切り崩されるわけなので当然だが、GHQが始めたWGIPを終わらせるためには、絶対に必要なことだろう。
東条英機の遺言
東京裁判にかけられ、死刑判決を受けた東条英機氏は言っている。
「米英側の指導者は大きな失敗を犯した。第一に日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。第二には満州を赤化の根拠地たらしめた。第三は朝鮮を二分して東亜紛争の因たらしめた。米英の指導者は之を救済する責任を負うて居る…」
第二次世界大戦後アメリカ合衆国は、日本人の無力化には大成功をおさめたが、朝鮮戦争、ベトナム戦争など後々非常に手痛い代償を払うこととなり、その災禍は、ご存知の通り、21世紀のいまになっても続いている。
WGIPは確かに強烈な影響を日本に与えたが、戦後70年以上が経ったいま、少しずつ変化が起きている。
東京の靖国神社は戦死者を奉る神社だか、いま、確実に参拝者が増えている。特に若者の参拝が増えている。
境内にある遊就館には、近代を中心に戦争に関する資料がびっしりと展示してある。そして明治以降のこの国の成り立ちについて、靖国神社の始まりについて、そして先の戦争が、どういう事情で起きたのか、日本側の立場が説明されている。
学校、おそらく大学で近代史を専攻しても、学習することがない内容ばかりである。そんな貴重な資料の数々を、熱心に見て読んでまわっている若者も増えている。
日本が関わった戦争について、今までさんざん吹き込まれた自虐史観からはまったく違った視点からで考えてみたい場合は、靖国神社と遊就館を訪れることを是非お勧めする。